世界の代表的なバラ育種家についてご紹介していきます。
育種家同士の意外なつながりや、銘花誕生の舞台裏など、知るとバラがもっと面白くなります!
正確な情報をご紹介できるよう注意していますが、もし間違いがあったらご指摘下さい。
フランスの作出家ファミリーで、何代にもわたって素晴らしいバラを作り出しています。
(人物関係がややこしいので、下に家系図を作ってみました↓)
まず、「ゴールデン・ステイト」などのバラを作出したのがアントワーヌ・メイアン(Antoine Meilland 1884-1971)。ちなみに、バラの「フランシス・デュブリュイ」などを作出したフランシス・デュブリュイは、アントワーヌ・メイヤンの義理の父(お舅さん)です。
アントワーヌの息子が、銘花中の銘花「ピース」を作出したフランシス・メイアン(Francis Meilland 1912-1958)です。フランシスと結婚したマリー・ルイーズ・パオリーノもマリー・ルイーズ・メイアンとして「ピエール・ド・ロンサール」などを作出しました。
そして、フランシスが早くに亡くなった後、祖父アントワーヌを父親がわりとして育ったのがアラン・メイアン(Alane Meilland)。 彼が作出したバラ「パパ・メイアン」は、祖父に捧げられたものです。 アランは、メイアン・インターナショナル社の現社長をつとめています。
アランには妹のミシェル(Michel Meilland)がいます。「ミシェル・メイアン」は父フランシスが娘に捧げたバラです。ミシェルは苗育種会社の息子、リシャルディエ氏と結婚しメイアン・リシャルディエ社を設立しました。
バラのカタログなどでは「フランスのメイアン」と一言で表現される事が多いのですが、現在は「メイアン・インターナショナル社」 「メイアン・リシャルディエ社」と2つあるわけです。ややこしい!
メイアン・インターナショナル社HP
メイアン・リシャルディエ社HP
レンズは、ベルギーの作出家ファミリーでした。まず初代がヴィクトール(Victor)。次に続いた息子のルイス(Louis)が、1870年に「Louis Lens Rose nursery」を創設しました。
ルイスが作出した「パスカリ」は
1956年にWFRSのバラの殿堂入りに選ばれています。
しかし1991年にRudyとAnneVelle-Boudolf夫妻によって「Louis Lens Rose nursery」は買収されます。買収に至る理由は調べても分からなかったのですが、どんな理由であれ創業者一家が経営から外れてしまうのは、何だか切ない話です。
会社はその後も順調に発展し、現在では「Lens Rose社」として800以上もの品種を扱っています。
シャルル・マルラン(Charles Mallerin 1876-1960)はエンジニアからバラの育種家に転身したという、変わった経歴の持ち主です。「ミセス・ピエール S デュポン」「ネージュ・パルファン」「ギネ」などのバラを作出し、バガテルの金賞を多数受賞しています。
マルランはアントワーヌ・メイヤンとも親交が深く、アントワーヌの息子フランシス・メイヤンはマルランからバラの栽培に関する様々な事を教えられたのだそうです。
フランシスは、恩師である彼に捧げたバラ「シャルル・マルラン」を作出しています。
ルネ・バルビエ(Rene Barbier 1845-1931)は日本原産の「テリハノイバラ Rosa luciae」を交配に使用して「アルベリック・バルビエ」や「アルベルティーヌ(アルバータイン)」などを作出。耐病性と長い開花期を持ったバラを作り出しました。
バルビエ兄弟という表記を見かけるのですが、詳細は分かりませんでした。ルネにお兄さんか弟がいるのでしょうか??ご存知の方はぜひ教えて下さい。
1834年に南フランスでバラ栽培業を始め、現在まで優れたバラを産み出している一族です。
初代は「マダム・ブレビー」などを作出したJ.B.ギヨー(jean-Baptiste Guillot 1803-1882)。その息子が「ハイブリット・ティー・ローズ」系の第一号となる「ラ・フランス」を作出したJ.B.ギヨー(jean-Baptiste Guillot.Fils 1827-1893)です。
この親子、名前がまぎらわしいです。公式HPでは息子の名前が「Jean-Baptiste Andre, or Guillot Fils 」となっていました。orってどういう事なんでしょう??フランス語でFilsは息子の意味だそうなので「ギヨー・ジュニア」のような感じでしょうか。
1871年、父ギヨーの事業は弟子だったジョセフ・シュワルツ(Joseph Schwartz 1841-1885)に買い取られます。シュワルツは「マダム・アルフレッド・キャリエール」などのバラを作出しています。
一方、息子のギヨーはどうしていたのか。1852年にはすでに、息子のピエール(Pierre)とギヨ&フィス(Guillot et Fils)を設立し、父ギヨーの元から独立していました。(会社名のFils、今度は息子ギヨーの息子ピエールの事です。ますますややこしい〜)。
このあたりの事情、詳細は分からなかったのですが興味をそそられます。父のやり方に反対して飛び出した息子ギヨーと、息子に失望し弟子に事業を託した父ギヨー、なんてストーリを想像してしまいました。あくまで私の勝手な想像ですが。
息子ギヨーが「ハイブリット・ティー・ローズ」系の第一号「ラ・フランス」を作出した事はとても有名ですが、その他にも「ポリアンサ・ローズ」系の第一号「パクレット」の作出、「ロサ・カニナ」への芽接ぎの方法の開発など、バラの発展に多大な貢献をしました。
3代目ピエールの後を継いだ、4代目のマーク(Marc)は第二次世界大戦で亡くなります。そして現在は5代目ジャン・ピエール・ギヨー(Jean-Pierre Guillot )と6代目で従兄弟にあたるドミニック・マサがバラの作出家として活躍。「ロサ・ジェネロサ(Rosa Generosa)」という新しい系統のバラを確立するべく取り組んでいます。
ジャン・ペルネ(Jean Pernet 1832-1896)は、フランスのリヨンの育種家で、「バロネス・ド・ロスチャイルド」などを作出しました。彼は一時期、J.B.ギヨー(父親のほう)に師事していた事があるそう。
息子のジョゼフ(Joseph Pernet 1859-1928)は育種家であるデュッシェ家の娘マリーと結婚し、ジョゼフ・ペルネ-デュッシェ(Joseph Pernet-Ducher)と名乗ります。彼は「リヨンの魔術師」との異名をもつ素晴らしい育種家として歴史に名を残しました。
「ハイブリット・ティ・ローズ」の元祖はJ.B.ギヨー作出の「ラ・フランス」ですが、このバラは実をつけない品種だったため、ジョゼフ・ペルネ-デュッシェが作出した「マダム・カロリーヌ・テストゥ」が「ハイブリット・ティ・ローズ」系の交配親として活躍しました。
さらに濃黄色のバラを確立した事でも功績があります。ジョゼフ・ペルネ-デュッシェ以前の黄バラは、ごく淡い黄色の品種があるだけでした。(注:原種では濃黄色のバラが存在します)ジョゼフが作出した「ソレイユ・ドール」の輝くような濃い黄色は、バラ愛好家たちから大きな賞賛を浴びました。
このバラを交配親に、濃黄色やオレンジ色の「ハイブリット・ティ・ローズ」系が作られていきます。ジョゼフ・ペルネ-デュッシェが作出したそれらの黄バラを総称して「ペルネティアナ」系と呼びます。
ジョゼフの業績は、第一次世界大戦で彼の息子が亡くなった後、彼の娘と結婚したジャン-マリー・ゴジャール(Jean-Marie Gaujard 1903-1995)に引き継がれます。ゴジャールは「オペラ」「ローズ・ゴジャール」などを作出しました。
ジャン-マリーの後は、息子のジャン-ジャック(Jean-Jacques Gaujard)が引き継ぎ、現在はジャン-ジャックの娘アヴリンヌ(Aveline Gaujard)が後継者となっています。
1935年にジョルジュ・デルバール(Georges Delbard 1906年-1999年)によって設立された園芸会社です。バラの育種は1954年から開始。代表作は、ベルベットのような光沢をもつ深紅のバラ「マダム・デルバール」など。
その後、息子のアンリ(Henri Delbard)、孫のアルノー(Arnaud Delbard)と家業が引き継がれていきますが、どこかの段階で他社に買収されたようです。私の語学力では詳細が分からなかったので、デルバール・ジャパンのサイトが完成するのを待ちたいと思います。
日本では、2007年から本格販売された、オールドローズの花姿と香りに四季咲き性をそなえた品種が人気で「フレンチローズ」ブームの中心となっています。
デルバール社のバラは、香りを重要視しているのが特徴。フランスの調香師、モニーク・シリンガーさんによって、トップノート(開花初期に感じる香り)、ミドルノート(そのバラの中心となる香り)、ラストノート(花の終わりに感じる残り香)に分けて詳細に紹介しています。
デルバールローズの名花「クロード・モネ」を例に挙げると、トップノートはベルガモットやシトロンなど柑橘系の香り、ミドルノートは洋ナシなどフルーツの香りと青草の香り、ラストノートはピスタチオやバニラの香りだそう。
バラのカタログすべてに、カラフルなピラミッド型で表現した「香りの説明図」がついているので、香水を選ぶような感覚でお気に入りを探すのも面白いです。